弁慶の力自慢挿話
激しい戦いも屋島に日が傾くと互いに軍を退け、源氏は瓜生が丘に陣を張り、本陣を西林寺に置いていた。翌朝、本陣では戦いの前の腹ごしらえと、兵士達はその準備に追われていた。しかしこの辺りは海辺だったので水が出ない。困り果て右往左往する炊き出しを見かねた豪傑・武蔵坊弁慶は、大長刀でひょいと大石を投げ飛ばしたという。すると摩訶(まか)不思議、水が噴き出す泉を作ってしまった。これが今に残る「長刀泉」である。
それから近くにあった石地蔵を持ち出し、「今度は何をするつもりか」と周りのものが見守るなか、弁慶は地蔵様の背中をまな板代わりに野菜を並べ、豪快に切り刻んだ。これもまた「菜切地蔵」となり、源平合戦の楽しいエピソードとして語り継がれている。
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合戦の大輪「扇の的」
やがて合戦の情勢も見えはじめ、阿波・讃岐の武将たちも源氏に馳せ参じ、次第に平家は四面楚歌の状態になった。
その時、平家方より一艘の船が近づいてきた。女官を乗せたその船の舳先になにやら赤いものを掲げている。扇である。波に漂う船に掲げてあるその扇の的を射てみよ、というのだ。義経は家来を見渡し、手利きで名の知れた那須与一に命じた。しかし、射損なっては源氏の恥と、最初は拒んだ与一もやがて義経の命令に逆らえなくなった。「もし、射損じれば弓を折って死ぬまで」と心に決め、「南無八幡大菩薩願わくは…」と一心に祈りながら、荒れる海に乗り入れ、海中にあった大石(駒立岩)に馬を立たせ、無心に扇をねらって、弓を放った。矢は長鳴りを浦に響かせながら飛び、パシッと扇は見事、空高く舞い上がった。ひととき静まりかえった両陣にどっと歓声が沸き上がった。
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十郎・景清の一番勝負
「扇の的」の名場面は那須与一にとって、生きた心地がしなかった。与一の腕を讃えて舞い踊る船の中の老武者を見た義経は、与一に命じて平家の船に向かって再び矢を放させた。その老武者は顎に矢を射立てられ船底に倒れた。それを口火に両陣の激しい合戦がまた始まった。
浜では、源氏の美尾屋十郎と平家の悪七兵衛景清の一騎打ちが繰り広げられていた。何度となく刀を交えたが、船上からの攻撃に耐えかね不利になった十郎が逃げようとすると、景清は熊手で十郎の錣(しころ)をつかんだ。両者が引き合いの末、その錣の糸が切れ、辛くも十郎は逃げのびた。景清の力強さと十郎の首の強さには互いに感心するばかりであった。
一方、義経は馬の腹も浸る程に海中に進み戦っていた。思わず深入りした義経は、うっかり海に弓を流してしまった。あわてた義経は矢が飛び交う戦場のことも忘れて、必死に弓を追いかけた。拾い上げた瞬間、義経は苦笑しながら「立派な弓ならわざと落としても拾わせようが、こんな貧弱な弓が源氏の大将の弓と知れては恥になる」と…。
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戦いの終焉
幾度となき戦いも終わりが近づいた。
平家の応援に駆けつけた阿波の田内(でんない)教能も、義経の家臣・伊勢義盛の働きでまんまと源氏方につくことになる。
援軍さえも源氏方に取られた平家は、やむなく西へ、西へと追いつめられ、平家一門が三種の神器を奉じた安徳幼帝とともに、長門の壇ノ浦に沈んだのは、それからわずか一ヶ月後の寿永四年三月二十四日のことであった。
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瓜生が丘
屋島に陣を構える平家を攻めるために、源氏が陣を張った場所。
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